幸
某ホラーゲームのワンシーンのパロディです。
「…お…さ…ぃ」
夕闇色に染まる住宅街を歩いていたかごめは、ぼそぼそと何事か呟く男とすれ違った。
普段ならば気にも留めないがその男がなぜか周囲と隔絶した雰囲気を持っていたため
つい立ち止まり振り返ってしまった。
「…おかえりなさいの次は靴を脱いで家にあがるんだ…」
「…」
「アイツがそれを迎える。そうしたら俺は…家に…」
「…」
男はくたびれたスーツを着た中年のサラリーマンだ。仕事が大変なのか顔色が良くない上に、
自分を見つめているかごめに目もくれず一軒の家の門の前を行ったり来たりしている。きっとこの家が男の
自宅なのだろう。人のいる気配や物音はするが明かりはまだ点いていない。
「…俺はウチにあがってるんだから…」
「…」
「おかえりなさい」
「…」
「おかえりなさいの次は…靴を脱いで…」
「何を、しているんですか」
男の行動を見ていたかごめがついに声をかけた。声をかけられ、男はここで初めてかごめの存在に
気がついたようだ。
「何をしたら家に入れるのか忘れてしまったんだ」
項垂れるようにして男は言葉を返す。しかしその目はかごめを捉えてはいない。
「思い出すまで家には入れないんだよ」
そう言って、まるで地平線を見るかのような遠い目をして男は自宅の扉を見た。
と、そこで男は初めて気付いたように言う。
「そうか、もう4ヶ月も帰ってないんだ…」
「よんかげつ…ですか」
「今度のプロジェクトは失敗するわけにはいかないんだ。だから帰れなかった。…4ヶ月
忘れてしまうんだな。当たり前に家に帰っていたことが信じられないよ」
男は呆然とした表情で立ち尽くしていた。今の今までそんなことには気付きもしなかった、
というような表情だった。
「ただいま…と言えば、おかえりと返してくれますよ」
「……ああ、そうか。何も考えなくて良いんだ。そうだ、ただいまと言えばそれで…」
男は門の前に立った。そして小さく頷くとはっきりと言った。
「ただいま…」
男の姿は一瞬だけ輝いたように見えた。そして、振動するようにその姿がブレて、そのまま霧散していった。
人の姿など、もう何処にもなかった。
男の姿が完全に消えたとほぼ同時に辺りが少し明るくなった。彼の家に明りが点いたのだ。
家の戸に手をかけながら、かごめはごくりと喉をならす。普段はなんとも思わないというのに、何故か
今日は緊張していた。
がらがらと音を立てて戸を開け、玄関でいつもより大きい声で言う。
「た、ただいま!」
奥の部屋からハニーと紫のおかえりと言う声が聞こえてくるのに安心した。しかしもう一人の声が聞
こえない。もしかしたら聞こえなかったのかもしれない、ともう一度言葉を発しようと大きく息を吸い込んだ時だった。
後ろから頭にぽんと手を乗せられた。
「おかえり」
このホラーゲームすごい好きでした。
2008 3 18